2009年、「タンゴ」は、アルゼンチンとウルグアイ両国が共有する貴重な伝統芸術として、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。私たち日本人にも馴染みの深いタンゴは、どのような歴史の中で育まれ、発展してきたのでしょうか。タンゴ演奏には欠かせない、主役楽器「バンドネオン」を通して、タンゴの歴史に少し思いをはせてみましょう。
1956年東京都生まれ。東洋大学文学部国文学科卒業。卒論は民俗学。アルゼンチン・フォルクローレの歌との出合いをきっかけに、78年「中南米音楽」入社。翌79年より、旧・月刊中南米音楽~ラティーナ誌の編集に携わる。同誌編集長、2000年に月刊パセオフラメンコ編集長をつとめ、02年以降、フリーランスの音楽ライターとして執筆活動中。
タンゴが誕生したのは、1880年。公式の記録=楽譜で「バルトーロ」が出版され、形式名「タンゴ」が初めて記された年です。
「tango」という言葉自体はアフリカ起源ですが、生まれたてのタンゴを奏でていたのは、ヨーロッパ伝来の楽器ばかり。ギターを中心に、フルートとバイオリンを加えた編成。時にマンドリンやアコーディオン、ピアノで奏でられることもあったそうです。ドイツ生まれの蛇腹(じゃばら)楽器「バンドネオン」は、19世紀末に新大陸へもたらされ、1910年代頃からタンゴの主役楽器として定着しました。
以来、もはやタンゴの鼓動とは切っても切れない関係にあります。
バンドネオンとアコーディオンとは「兄弟」とも、「もっとも遠い従兄弟同士」とも言えそうです。もとは同じ、1820年代にさかのぼるアコーディオンの原形ですが、さまざまな改良が、演奏家や土地の音楽志向に応じて加えられ、異なる形や構造、ボタン配列を生み出しました。なので、同じ樹から枝分かれした、別の特徴をもつ葉か花のようなものかも知れません。ドイツでバンドネオン製作が盛んになったのは、1850年代以降のようです。
いつ、誰がとは、さすがに特定できませんが、19世紀後半、港湾都市ブエノスアイレスが本格的な首都として発展をうながされると、国策によって積極的に海外移民の受け入れを開始します。土地を与えられると聞き、新天地での成功を夢見た旧大陸出身者の中には、故郷への思いをバンドネオンに託した人々もいたのでしょう。新都市の音楽「タンゴ」と、ドイツ生まれの楽器「バンドネオン」が強く結びついて大人気を博し、1910年代には、ドイツから大量のバンドネオンが、アルゼンチンへ向けて輸出されたといいます。
原形のアコーディオンもそうなのですが、バンドネオンには、蛇腹(じゃばら)の押し引きで同じ音が出る「クロマチック式」と、違う音の出る「ディアトニック式」と呼ばれる二種類の楽器が、もともと存在していました。タンゴ演奏家の大多数は、後者の「ディアトニック式」を好んで使う傾向があるようです。蛇腹を引っ張る(広げる)時の音色のほうが鳴りが良く、逆に押し縮める時には、ややこもった音色が出ます。明快な音をずっと出し続けるために、広げきった状態から空気抜きのレバーを使い、瞬時に蛇腹を縮めるやり方があります。すると、かすかに息が漏れるような音がして、まるで人間の呼吸のよう。そんな、生き物っぽさに、バンドネオンの魅力があるのかも知れません。ちなみに、現在タンゴ界でおもに使われているバンドネオンは、左のボタン数が33個、右が38個で、5オクターブ弱の音域が出ます。最大、蛇腹は1メートルにも広がります。
故郷のドイツでは、土地の民謡からポルカ、ワルツ、マーチ等の演奏で、今も活躍しているそうです。移民によって持ち込まれた当初には、やはりポルカやワルツ、マズルカなどヨーロッパのリズムを奏でていました。現在、タンゴで主役楽器をつとめるほか、アルゼンチン国内では、一部のフォルクローレ演奏によく使われます。時にバンドネオンとアコーディオンが、ひとつのバンドで共存しているくらいです。特に、東部の大河沿岸地方や北部のフォルクローレの中で、タンゴとは別の鼓動を刻み続けているのです。
タンゴ界は、それぞれ時代ごとに偉大なバンドネオン奏者を輩出してきました。創成期の名手フアン・マグリオ・パチョ、ビセンテ・グレコに始まって……1920~30年代に活躍し、今に至る奏法の源となったペドロ・マフィア、ペドロ・ラウレンス、リズムを強調したフアン・ダリエンソ楽団の歴代バンドネオン奏者たち。黄金の1940年代を豊かに輝かせたアニバル・トロイロ、アルマンド・ポンティエル、1950年代のリズムに革新をもたらしたオスバルド・プグリエーセ楽団の歴代バンドネオン奏者たち。異端児ながら、現代タンゴのシンボルとなったアストル・ピアソラ……民音タンゴ・シリーズで来日した最高のマエストロたち。大事な名前を挙げ忘れる愚をおかしそうなので、このへんにしておきます。
ギター伴奏だけで歌われるタンゴや、バンドネオンが主役となる以前のスタイルを再現する編成、管楽器だけでタンゴ演奏するグループなども存在します。でも、歴史的にタンゴの楽曲は、必ずしもひとつの決まりきった楽器編成で演奏しなければいけない、というものではありません。タンゴらしさを、例えばギター一本、ピアノ一台で表現し尽くすことさえ可能です。どんな名曲も、小編成から大編成まで、あらゆる表現法が駆使されてきました。そこに演奏家や楽団それぞれの、個性や才覚がにじみ出てくるのです。だから、どんな名曲も古めかしくならないのです。ただし、バンドネオンの刻むリズムと音色は、タンゴにとってあまりにシンボリックで、非常にイメージが強烈すぎますが。
6~7kg前後です。膝の上に乗せ、蛇腹を激しく開いたり閉じたりしますから、演奏者の履くズボンへの負担は大きい。そこで、たいていのバンドネオン奏者は、当て布をズボンの上に乗せて弾きます。ステージ上の演奏家がソロ演奏をする際、椅子から立ち上がり、片足を椅子に置きながら、豪快に弾き始める前後など、特に注目してみてください。
これほどタンゴが世界で人気を集めているのに、残念ながら、ほとんどの演奏家が50年以上も前に作られた古いバンドネオンを愛用しています。わずかにブラジル南部などで、現在も楽器製造がおこなわれているそうですが、音質や価格の問題から新品は敬遠され、中古品が受け継がれているのです。まったく、エコな時流にふさわしい楽器ではありませんか。バンドネオンの母国では、旧西ドイツは1970年まで製造を続けていたようですが、その後の生産は途絶えてしまいました。だから、今はもっぱら、いかに古い楽器を修理・調律できる職人を見つけられるかが、重要なのです。ブエノスアイレスで、近年すご腕の職人が登場し、一目おかれているという話もうなずけます。また、やむなく演奏家自ら、楽器の修理を手がけることもあるそうです。
ジャズが日本に広まり、人気に火がついた時代と重なります。ちょっと伝説めいた話になるのですが……昭和2年(1927年)、足かけ6年に及ぶ欧州遊学より帰国した、目賀田綱美(めがたつなよし)男爵が、アルゼンチン・タンゴのSPレコードを持ち帰ります。この人物、勝海舟の孫にあたるのですが、パリの社交界では「バロン・メガタ」と呼ばれ愛されるほどの人気者だったそうで、ダンスホール通いをしたあげく、日本の社交ダンスの基礎を築いたお方。男爵は帰国直前のパリで、のちに米国で映画俳優となる早川雪洲から、これらタンゴのSPレコードを贈られたとか。帰国後、その音源が驚きをもって受け止められ、昭和7年に日本のレコード会社から初めて国内盤発売されました。当時、パリではタンゴ・ダンスもブームでしたから、図らずも目賀田男爵は、日本のタンゴ・ダンスの祖でもあるわけです。
まず、音楽が広まったきっかけには、ラジオ放送の開始と、国産レコードの普及があります。でも最大のきっかけは、昭和4年、赤坂にダンスホール(今でいう「クラブ」にあたる?)がオープンし(店の命名者がこれまた、例の目賀田男爵だったのですが)、生演奏でタンゴを初体験できた衝撃でしょう。この成功を受け、ダンスホールの数、ダンス人口が急増し、タンゴが当然のように踊られたのだそうです。昭和10年代には、日本人のタンゴ楽団も誕生します。また、古賀政男はじめ、日本歌謡界の名だたる音楽家たちもタンゴの曲作りを進めます。知らないところで、タンゴ編曲も、ずいぶんと歌謡曲の中に取り入れられてきたのです。たいそうエキゾチックな魅惑音楽だったのでしょう。
戦後、ラジオの生演奏番組をきっかけに、多くの日本人タンゴ楽団が結成され、中でも「オルケスタ・ティピカ東京」は、タンゴの母国アルゼンチンでも大成功をおさめました。その名門ティピカ東京を支え続けた、バイオリン奏者の志賀清さん、バンドネオン奏者の京谷弘司さん。やはりラテンアメリカで破格の成功をおさめた「坂本政一楽団(旧・オルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ)」にも参加した、バンドネオン奏者の門奈紀生さん等、ベテラン演奏家がいます。また、1990年代末以降の「ピアソラ・ブーム」をきっかけに急浮上し有名になった、バンドネオンの小松亮太さん。小松亮太さんの登場に触発され、今日では続々と若い世代のタンゴ演奏家が増えています。
生まれた当初、タンゴは他愛もない戯れ歌だったり、猥雑な歌詞もあったようですが、1910年代後半に国際的スター歌手カルロス・ガルデルが現れると、一変します。たちまち大衆の心をとらえて大ヒット。一気に歌のタンゴが全盛期を迎え、タンゴの名ソングが映画から、舞台からあふれ出しました。1930年代後半以降、より歌詞に哲学的な重みももたらされますが、大半のタンゴは「嘆き」や「恨み」といった悲しみの要素がつきものです。例えば、女性に裏切られた男性の捨て台詞や、忘れられずに苦悶し続けるうめき、切実な望郷の思い、等々。もちろん陽気な歌もありますが、センチメンタルな感情がどうにもよく似合ってしまうようです。
ストレートに聞き手へ訴えてくる感情表現には、どこか共通するものがあるかも知れません。ご自慢の泣き節も……。タンゴの場合、下町の荒っぽい俗語をあえて使い格差社会を反映させてみたり、移民たちの抱く望郷の念や、普遍的な人生の苦悩を歌に込めています。どの歌をとっても、その時代ならではの世相が、実は浮き彫りになっているはずです。
出身地や世代により、鼻歌の種類も当然ながら違うはず。もちろんアルゼンチン国民といえども、世界のポップ・ミュージック・シーンと無縁ではいられません。ことに1970~80年代は、若者のタンゴ離れがいちじるしかった時代といえます。それでもなお、歴史に残るタンゴ名曲の数々は、特にブエノスアイレス市民にとって、自分たちのアイデンティティを体現する音楽。一曲も口ずさめない人なんて、まず滅多にいないでしょう。80年代末以降の世界的なタンゴ・ブームをきっかけに、経済危機をなんとか乗り越え、今日ようやく若い世代の間でも、タンゴが身近に感じられるようになっているそうです。新世代の演奏家を後押しする機運が大いに高まっています。こうなれば、懐かしい名曲群ばかりでなく、新曲タンゴの鼻歌が、街を歩けば聞こえてくる日は、そう遠くないかも知れません。
ひと頃、タンゴはもっぱら、ブエノスアイレス観光スポットの一角に押し込められていた感があります。現在では、誇りをもってタンゴのイメージが海外へ向けアピールされているため、街中のいたるところでタンゴを耳にすることでしょう。ただし、少々不遇をかこっていた時代でさえ、家々の中にはタンゴの記憶が存在していました。週末の閑静な裏通りを散策すれば、どこかの窓辺からタンゴの旋律が流れてきたものです。きっと、父母や祖父母の愛した名曲・名演が、そっと大切に受け継がれていたのでしょう。
「タンゴ」という形式名が楽譜に記されたのは1880年ですが、もう少し前からタンゴは踊られていたようです。新都市ブエノスアイレスの周縁地区で、すでに19世紀半ば頃、新種の娯楽としてのタンゴダンスが育まれ、場末の歓楽街で人気を集めていたと伝えられます。都市の庶民にまで広まってゆくのは、カフェやダンスホールの全盛時代。祝祭日の広場などでも、タンゴがこぞって踊られるようになりました。やがて劇場舞台にまでのぼりつめたタンゴダンスは、芸術的ステップを踏み出し、世界中のファンを魅了してゆきます。
実は、現在のようなセクシー度の高まりは、1980年代半ば以降、タンゴショーの数々が世界を席捲してからの現象です。より派手な開脚アクションに決めのポーズ、目を奪う足さばきをカップルごとに競い合い、技がエスカレートするにつれ、衣裳のスリットのほうも、ますますダンスに合わせて深く大胆に……。もともとカップルが密着して踊る、世界一官能的なダンスと称されたくらいですから、相手を誘いひきつける、駆け引きの要素がたっぷり。セクシーなのも当然ですが……いささか、往時の“はんなり色香”が恋しい今日この頃(笑)、ではあります。
※回答不能(苦笑)。
タンゴの旋律は、一部の陽気な歌曲、牧歌調ののどかな民謡を除けば、ほとんどが人生の苦悩や悲哀、深い嘆きに根ざしています。だから、にこにこ笑って踊るわけにはいかない。楽曲そのものの持つ感情を、ダンサーも表現する必要に駆られるからなのでしょう。
はてさて、どうでしょうか。踊れない人も、踊れたらいいなぁと、思っているのかも知れません。でも、舞台上のめくるめくステップだけが、タンゴダンスではありません。現地では、老いも若きも、夫婦や親子、恋人同士、友人の間柄にとどまってもいい、気軽に基本のステップを踏みながらダンスを楽しむ、庶民的な集いがあります。「ミロンガ」と呼ばれますが、日常の気さくなダンスの集いのことも、ダンスが踊れる場のことも指します。ひと頃お目にかかれなくなっていた「ミロンガ」は、近年、首都で大人気なんだそうです。
プロダンサーたちの恐ろしい技を、真似しようなどと思わないに限ります(笑)。そうすれば、恥ずかしくない。むしろ、スポットライトを浴びぬところでこそ、タンゴの根源的な楽しみが生きていることを、想像してみてください。たとえば、老夫婦がつつましく抱き合って踊るタンゴダンスは、一番素敵。互いをいたわり合い、長く寄り添ってきた人生の歩みを、あたかもなぞるかのようなダンス……華麗なポーズなんぞ、決して他人に見せる必要はありませんからね(むふふ)。
近年、現地にならい、「ミロンガ」と称する集いが全国で急増しています。基本ステップ等のレッスンを受けてからの参加、という手順のようですが、集まりごとにダンスの目的や解釈も違うはずですから、それぞれ会合の性格を見極めるため、まずは見学させてもらうのが妥当かも知れません。また、音楽をじっくり聴きながらリズムを楽しみ、タンゴに潜む独特の情感を味わい尽くすことが、タンゴダンスにとってなにより必要不可欠です。